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本 Archive

宇宙は何でできているのか

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このところ、皆既月食をはじめ、立て続けに宇宙とか物理学に関するニュースが続いてましたね。
ちょうどこの本を読んだ直後に「ヒッグス粒子発見」のニュースも飛び込んできたので、大宇宙というマクロの世界とミクロの素粒子の世界が密接な関係にあるということを実感。
この本ではマクロとミクロの連続性を「ウロボロスの蛇」になぞらえています。
中学生の頃、人間の体を構成する分子や原子をどんどんズームアップしていくと、電子雲の中に銀河があってそこには星があり、その中にまた人間がいるみたいな無限の繋がりをイメージしたことがありました。後に手塚治虫の「火の鳥」を読むと同じイメージが描かれていたことに驚いたものでした。
いや、想像力をかき立てる科学はやっぱり面白い。中学生くらいの子どもたちにこの手の本をもっともっと読んで科学に興味を持ってもらえたらと思います。

つかみはけっこう優しくてわかりやすい内容ですが、途中からどんどんハードルが上がって、ある程度予備知識のある人でもついていけなくなる感はありますが、とりあえずわかったような気になって読み進むとなんとか最後までたどり着けます。複雑な事象をできるだけシンプルな理論で表現しようとする物理学の世界の入り口がここにあります。



宇宙が誕生したビッグバン後、万物に質量をもたらす起源となった「ヒッグス粒子」の検出結果を、欧州合同原子核研究機関(CERN)の二つの研究チームが13日、発表する。ヒッグス粒子の発見は、素粒子物理の標準理論の完成を意味する。「発見」という世紀の瞬間が近いと、世界中の物理学者やメディアの注目が集まっている。



おおぐま座の方向に129億1000万光年離れた所にある銀河をすばる望遠鏡や欧米のハッブル宇宙望遠鏡で発見したと、国立天文台や東京大などの日米研究チームが16日発表した。大内正己東大准教授によると、距離を正確に測定できた銀河では最も遠い。



太陽系外で地球に似た大きさの惑星が二つ見つかり、うち一つには水蒸気を含む大気がある可能性があることが、米航空宇宙局(NASA)の宇宙望遠鏡「ケプラー」の観測データを解析してわかった。


科学と芸術のあいだ: 「フェルメール 光の王国」

  • Posted by: Nobby
  • 2011年10月15日 23:36
  • 写真 |


「絵を見に行く。光のつぶだちを見つける。美しいもの美しいと感じる。自由でいる。たくさんの人々のおかげでこの旅がかなえられた。こんな本が作りたかった。」
(福岡伸一 著者あとがきより)

「生物と無生物のあいだ」以来、福岡伸一ファンなんですが、絵画にまでこのような深い造詣があろうとは。まいりました。科学者らしからぬ?華麗な文体が今回も冴え渡っていますね。
いよいよ、京都での展示も明日16日までとなってしまいました。行った方も行かない方も、フェルメールに興味があるのなら、この本はかなりおすすめです。同行の写真家、小林廉宜氏による写真の数々も美しく、本に彩りを添えています。写真好きの方にもおすすめ。

《微分》というものは、実は何も難しいものではありません。高校の教師はかつてそう私に語った。
《微分》というのは、動いているもの、移ろいゆくものを、その一瞬だけ、とどめてみたいという願いなのです。カメラのシャッターが切り取る瞬間、絵筆のひと刷きが描く光沢。あなたのあのつややかな記憶。すべて《微分》です。人間のはかない"祈り"のようなものですね。微分によって、そこにとどめられたものは、凍結された時間ではなく、それがふたたび動き出そうとする、その効果なのです。

福岡伸一氏の著作にたびたび登場する「動的平衡」というキーワード。
このキーワードにたどりついたのも、高校の教師の《微分》についての説明が大本にあったのかなとさえ思います。

全ての事象は時の流れの中で時々刻々と変化を遂げている、いわば諸行無常。今、目の前に見えているものの姿はその一瞬を切り取った(これを氏は「微分」と表現している)「刹那」の姿。
フェルメールの生きた17世紀、ニュートンが微分法を生み出し、同時期に、「光の天才画家」と称されるフェルメールは、知ってか知らずか光を粒子の流れとしてとらえ、絵筆でもって光の流れ=時間を絵の中にとどめおくことに成功した。
それゆえ、フェルメールの絵からは、その一瞬だけではなく、その前後の時の流れ、物語さえ感じられるのでしょう。

訪問先でのエピソードは、著者の過去の著作にたびたび取り上げられている歴史上の人物が登場し、フェルメールと関連付けて語られているのも興味深い。レーウェンフック、アインシュタイン、エッシャー、ガロア、ライアル・ワトソン、シェーンハイマー、などなど。「生物と無生物のあいだ」では、ニューヨーク時代の野口英世の話が出てきますが、この本でもニューヨークで野口がフェルメール作品を目にしていたのではないかという仮設を示し、夭逝したフランスの天才数学者ガロアも実に魅力的に描かれています。
ワトソン、シェーンハイマーあたりは自分の著作の中や翻訳本で取り上げている方々を無理やり登場させている気配もありますが・・・

この本を読む前に、福岡氏の著作をいくつか読んでおくとさらに楽しめるのではないかと思います。



フェルメール展 in 京都

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20110928_heian_torii.jpg会社の健康診断で京都へ行ったついでに(どっちがついでかっちゅー話もありますが)、午後をお休みにして京都市美術館で開催中のフェルメール展に行ってきました。

健診が終わってJR、地下鉄を乗り継ぎ、お昼ごろに到着すると、美術館の前には長い行列。待ち時間表示を見ると、チケット売り場まで30分、そこから会場入口まで10分の表示。平日なのに思ったよりは長いなと思いましたが、休日ならこんなもんじゃ済まないよねと、おとなしく最後尾へ。
ちょっと暑かったですが、だいたい表示通りの待ち時間で入場できました。

フェルメール作品は、「手紙を書く女」、「青衣の女」、「手紙を書く女と召使」の3点のみですが、同時代のオランダの画家の作品が40点ほど展示され、「コミュニケーション」をテーマに絵に込められたメッセージを読み解くという展示でした。

少し前の「情熱大陸」でこの展覧会の企画に携わられた女性のキュレーター林綾野さんのドキュメンタリーを見ていたので、ある程度の予備知識を持ってはいたのですが、思っていた以上に多くの作品が展示されており、どれも見応えのあるものでした。作品についてはここであれこれ書くよりは直接見ていただいて感じていただくのが良いように思いますから、あえて触れないことにします。展示について少し苦言があるとすれば、照明のあて方でしょうか。角度的にほぼすべての絵の上の方が反射で見にくく、ディテールがわからない。絵によってはそこに意味のあるものが描かれている場合もあるので、もう少し工夫ができないものかと思いました。あとは、見に来ている人のマナーですかね。壁際の列に並んでゆっくり絵の前まで進んでいくのが普通の流れなんですが、後ろから来て絵の前の方から割り込んでくる年配の方々が多いのには閉口しました。まぁ、気にしないほうが精神衛生上は良いと思いますが、もうちょい会場整理の仕方を考えてくれれば要らぬストレスを感じないで済むのではと思いました。

あと半月ほどで京都での展示は終わりますので、興味のある方はぜひ足を運んでご覧になってください。


20110928_vermeer_catalog.jpg会場出口にはグッズコーナーがあり、写真の展示カタログや作品のレプリカ、絵葉書などが売ってました。カタログは大判の立派なものが2500円とリーズナブルな価格でしたので、かなり売れてました。帰ってからじっくり読みましたが、各作品について詳しく記述されていておすすめです。



事前にいろいろ調べてから見るか、全く先入観なしで見るかはそれぞれメリット、デメリットがあるように思いますが、後先は別にして手軽にフェルメール作品の全容を知ろうとすれば、この本はおすすめ。文庫サイズなのですが、全作品をカラー写真で見られ解説も丁寧でわかりやすかったです。

Small is Beautiful

  • Posted by: Nobby
  • 2011年8月21日 15:58

【第二部 第五章 人間の顔を持った技術】
私は技術の発展に新しい方向を与え、技術を人間の真に必要物に立ち返らせることができると信じている。それは人間の背丈に合わせる方向でもある。人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。

「大きいことはいいことだ」という TV CM が流れていたのはまだ高度成長期だった1960年代終わりから70年代くらいだったと思います。この「Small is Beatuful」が出版されたのはちょうどその頃、1973年。無限の発展を前提とした経済理論がずっと以前に破綻しているのは間違いないですが、今から40年も前に現在を見越したような警鐘を鳴らしているこの本はあらためて価値を見直され広く読まれて欲しい一冊。経済学の本では無く、一級の思想書として読まれるべき良書です。

振り返ってみれば、ここで指摘されている問題の数々は、実は当時から誰もがずっと薄々勘づいていながら知らぬふりをしてきただけのことかもしれません。フクシマが現実のものとなってしまった今、足元を見つめ直し将来の子どもたちに何を残すべきかを考えたいものです。

もちろん、理想だけを唱えていても何も解決しません。原発を今すぐ全廃などということは現実的ではないし、営業運転を止めたとしてもそこに核燃料が存在する限り危険の度合いは大して変わらないのも事実。脱原発、原発推進と二極化して互いに煽っても仕方がない。自分たちの10年後、20年後、さらには二代、三代後の子どもたちが安心して暮らせる社会を築くにはどうすれば良いのか、知恵を出し合うことが必要です。


◆スモール・イズ・ビューティフル
  人間中心の経済学
  E・F・シューマッハ 著

◆Small is Beautiful
  A Study of Economics as if People Mattered
  by E. F. Schumacher

【目次】

第一部 現代世界
 第一章 生産の問題
 第二章 平和と永続性
 第三章 経済学の役割
 第四章 仏教経済学
 第五章 規模の問題
 
第二部 資源
 第一章 教育...最大の資源
 第二章 正しい土地の利用
 第三章 工業資源
 第四章 原子力...救いか呪いか
 第五章 人間の顔を持った技術
 
第三部 第三世界
 第一章 開発
 第二章 中間技術の開発を必要とする社会・経済問題
 第三章 200万の農村
 第四章 インドの失業問題
 
第四部 組織と所有権
 第一章 未来予言の機械?
 第二章 大規模組織の理論
 第三章 社会主義
 第四章 所有権
 第五章 新しい所有の形態
 
結び


以下、印象に残った部分を少しだけ抜粋。

【第二部 第一章 教育...最大の資源】
教育の役割として、まずは何をさておき価値観、つまり、人生いかに生きるべきかについての観念を伝えなければならない。ノウハウを伝えることも必要には違いないが、それは二義的なことである。相手に大きな権力を渡す場合、相手が分別のある扱い方を心得ているかどうかを確かめないのは、明らかに無謀なことだからである。今日、人類が恐るべき危機にあるのは疑いないが、それは科学・技術のノウハウが足りないからではなく、英知がかけているのでこのノウハウを破壊目的に使う心配があるためである。教育の向上は、それによって英知が増すときに限って役に立つ。
教育の核心は価値の伝達にあると述べたが、価値はわれわれの身につき、精神のいわば一部にならない限り、人生の導き手としては役に立たない。


【第二部 第四章 原子力...救いか呪いか】
人間が自然界に加えた変化の中で、最も危険で深刻なものは、大規模な原子核分裂である。核分裂の結果、電離放射能が環境汚染のきわめて重大な原因となり、人類の生存を脅かすことになった。一般の人たちが原子爆弾のほうに注意を奪われるのはうなずけるが、それが二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが、いわゆる原子力の平和利用が人類に及ぼす危険のほうが、はるかに大きいかもしれないのである。

危険を判断するのが仕事の保険会社が、世界のどこでも第三者への損害に対して原子力発電所を付保してくれないので、特別立法によって国が債務を負わざるをえないしまつである。とはいえ、保険をかけようがかけまいが、危険は危険であって、これこそ経済学という宗教に毒されて政府も国民も原子力の「採算性」にしか目を向けていない例である。

新しい「次元」の危険のもうひとつの意味は、今日人類には放射能を造る力があるのだが -- 現にまた造ってもいる -- いったん作ったが最後、その放射能を減らす手立てがまったくないということである。放射能に対しては、化学反応も物理的操作も無効で、ただ時の経過しかその力を弱めることができない。炭素14は半減期が5900年であるが、このことは放射能が半減するのに6000年かかるということを意味する。ストロンチウム90の半減期は28年である。だが、半減期の長さはどうであれ、放射能は半永久的に残るわけで、放射能物質を安全な場所に移す以外に施すすべがない。

それにしても、原子炉から出る大量の放射性廃棄物の安全な捨て場所とは、いったいどこであろうか。地球上には安全だといえる場所はない。(中略)プランクトン、藻、多くの海中動物には、放射性物質を1000倍、ときには100万倍に濃縮する力がある。生物は生物を食べて生きているのだから、放射性物質は生命の連鎖を上にたどって、最後には人間に戻ってくるのである。

いかに経済がそれで発展するからと言って、「安全性」を確保する方法もわからず、何千年、何万年の間、ありとあらゆる生物に測り知れぬ危険をもたらすような、毒性の強い物質を大量にためこんでよいというものではない。そんなことをするのは、生命そのものに対する冒涜であり、その罪は、かつて人間のおかしたどんな罪よりも数段重い。文明がそのような罪の上に成り立つと考えるのは、倫理的にも精神的にも、また形而上学的にいっても、化物じみている。それは、経済生活を営むにあたって、人間をまったく度外視することを意味するものである。

Diary of Jellyfish : 「一冊の価値」



デジタル書籍が登場しても紙の本の価値が変わらないように、例えGoogle Mapがいかに優れていようとも紙の地図の価値は変わらない。
この時期に震災の被害や道路状況、自治体の救援措置状況などをこれだけ詳細に調査して纏めるのにはとてつもない苦労があったハズ。この一冊は現地で復興作業に携わる人々にとって力強い相棒になるに違いない。

よく復興支援について「自分達が出来ることから・・」という言葉を耳るけど、それをこれほど実践している例もないなと思った。昭文社に拍手を送りたい。




モノやコトには全て何らかの価値があり、価値を成すための機能、役割がある。
普通の企業であれば、企業理念として自らの価値や役割を謳っているだろうし、その中には「社会貢献」の文字があるにちがいない。
そして、それをきちんと具現化できている企業の価値は社会にとって計り知れないものだと思う。

昭文社は地図の発行を自らのキーファンクションとして社会に貢献している。
その企業理念は、そのものズバリ、こうである。
「倫理綱領」より

<企業理念>
地図をベースに限りない挑戦により変化の時代を拓き、社会に貢献する



果たして、東電は自らのキーファンクションを何だと思っているのだろうか。
お題目は立派なのだが・・・
仏作って魂入れずとはこのこと。

「東京電力グループ経営理念」

エネルギーの最適サービスを通じてゆたかで快適な環境の実現に貢献します

・「経営理念」は、「私たち東京電力グループが、世の中に存在し、企業活動を行うのは何のためか」という存在意義を示したものです。

・「ゆたかで快適な環境」とは、「便利でくらしやすいだけでなく、心豊かで、自然とも調和した持続可能な社会」と考えています。

・私たち東京電力グループは、お客さまや社会のニーズを先取りした、電気を中心とするさまざまなサービスをお届けすることで、そうした環境の実現に向け貢献していきます。

戦争はなぜ起こるか

  • Posted by: Nobby
  • 2010年8月15日 17:56

私が戦争の経験から学んだことの一つは、人種、国籍、身分などによる差別と偏見のありようの全体としてこり固まったところに成り立つのが戦争であるということである。そして、人種や国籍による偏見や蔑視は、身分や階級による差別や不平等と一緒のものである。戦争を無くするための努力は、身分や階級による不平等をなくするための努力と一緒でなければならないし、困った問題が起こったとき、その困ったことを弱いものに押しつけることはやめる、ということを世界中の人が決心しなければならないのである。さあ、それは大変なことだ。しかし、われわれはもう、その方向に足を踏み出すよりほかに道がないのではないか。

今日は終戦記念日。
書棚から久々に取り出して読みなおしてみました。
子ども向けに書かれた文章ですが、大人でもわかりやすく読めると思います。

戦争を始めたいやつらは、貧困や人種、民族、宗教による差別や不平等を戦争の材料にし、自らは安全な場所にいて、いつの場合も犠牲になるのは一般市民であり弱者である女性や子どもであるということ。

貧困や不平等を無くすために、ひとりひとりが何らかの行動を心がけられればと思います。差別や人権侵害の現れとして子どもの虐待や殺人がニュースで流れない日がない日本は、平和ボケしているうちに戦争に近づいているのではないかと思ったりします。身近なところから始められることは多いんじゃないでしょうか。

教育と体罰 - 「野球を学問する」: 桑田真澄

昨夜、「S-1」というスポーツ番組を視ていたら「教育と体罰」というテーマで桑田氏が熱弁を奮っていました。
ちょうど今は高校野球の地区予選真っ只中。TV局もその辺りを意識しての番組だったのかもしれませんが、たびたび議論の対象になる高校野球のあり方についてあらためて考えさせられるものがありました。と言っても部活としての野球経験もないので、あくまでも部外者としての考察として番組の感想です。

まずは「体罰は是か非か」についてプロ野球選手の約8割が「必要」または「時には必要」と回答しているデータを提示。半数越えるかなとは思っていましたが、8割とは悪い意味で想像以上でした。
これに対して、ゲストのバレーの中田氏、ソフトボールの宇津木元全日本監督の2人が容認派、格闘家の魔裟斗氏が否認派。バレーとかソフトボールの2人が容認派なのはいかにもって感じでしたが、魔裟斗が否認派なのはちょっと意外で、けっこうまともなんやなぁと大いに見直しました。
桑田氏は体罰については全面否定のようで、戦前の軍隊教育をルーツとする「野球道」的な物の考え方や自身のPL学園時代の経験を紹介しながら体罰は不要だと語っていました。

私自身は体罰については反対ですし、「高校野球は教育の一環」みたいなことを言いながら、休み無しのスパルタ練習とか、失敗などに対してグランド10周やら一週間草むしりの罰を与えるような指導(と言えるのかどうか)には大いに疑問ありです。

で、最近、仕事なんかでも良く使っている思考法のひとつである「ファンクショナル・アプローチ」で教育や指導の目的とか機能(ファンクション)を考えてみて、さらにその中で体罰にどういう機能を求めることができるのかを検討してみました。

教育の目的はめちゃくちゃ大雑把に言うと

「一人でメシを食える大人に育てる」

ってことなんかなと思います。(異論はあろうかと思います)

そのために、教育にどういう機能を求めるかですが、
 ・自分で物を考えて解決できるようにする
 ・そのための基礎学力を身につけさせる
 ・自分で自分の身を守れるようにする
 ・ルールやマナーを守れるようにする
 ・何らかの楽しみを持てるようにする

等々が考えられます。

さらにスポーツでの指導にはどういう機能を求めるかというと、
 ・競技に必要な技術を身につけさせる
 ・体力を向上させる
 ・メンタルコントロールできるようにさせる
 ・怪我の予防や、怪我からの回復方法を教える
 ・チームスポーツに必要な規律を身につけさせる

といった辺りを思いつきます。

ここで、体罰は上で上げたような機能のどの部分を受け持つものなのか、どういう機能を体罰に期待するのかということを体罰容認派の人に問うてみたいと思うのですが、どういう回答が想像できるでしょうか?
ステレオタイプな回答としては、
 ・規律を守らせる
 ・精神を鍛える
というようなものが考えられます。

どういう回答があったにせよ、

「それらは体罰以外では達成できない機能ですか?」
「それらを達成するのに体罰は最適の機能を持っていますか?」

と聞いてみれば、「体罰以外に方法がない」とは決して言えないのではないでしょうか?

おそらくですが、体罰容認派の指導者は、体罰に教育や指導以外の別の「機能」を期待しているのだろうと想像できます。
例えば、
 ・痛みや恐怖による絶対服従
 ・物を考えさせない
 ・自己の権威化
 ・悪しき慣習の正当化
など。
どれも本来の教育や指導には不要なばかりか害になるものばかりと言えます。
少し冷静になって考えれば、体罰の類は一切不要なのは明らかです。

さて、
我が母校の野球部はどうかなと言いますと、どうも旧態依然とした指導が行われているようで、いろんな話を聞いていると憤りさえ感じることがあります。
ほとんど年中無休で長時間のスパルタ練習とか、失敗や規律違反への罰ゲーム、「晩飯は白飯を5合食え」というような個人差無視の非合理的食事指導等々。
こういう指導の中からどうやって将来の日本(あるいは世界)を背負う人材を育てることができるのか、大いに疑問を感じるところであり、何らかの是正を望むものです。


p.s.
息子に、
「(当事者として)監督に文句言いたいから、おまえ、XX高に受かって野球部に入れ!」
と言ってやったら
「アホ」
と言われてしまいました。
今、息子は中学で吹奏楽部なのです。

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